2018年 05月 02日
【慶応四年正月の大阪での様子】
第14巻
第一章 明治維新と大阪
第一節 維新動乱と大阪
井上市兵衛日記 P.25
に慶応四年正月の大阪での久保無二三の様子が記載されている。
廿四日 晴
昨日長門屋小右衛門殿御陣屋へ被参、久保無二三殿へ此方兼而一席御振舞度由申居候、夜ハ内話為致候処、
幸明日御閑日二付別荘江御入之断御噂有之、則昼後御駈合致ス事、
昨廿三日 御本陣 福林寺御旅館 相伺、神田源兵衛殿御逢、毛利内匠様御用人御逢引取、
七ツ時頃 飯田 殿・久保無二三殿・桧 殿・増山静太郎殿・佐々木 ・井上清次殿・ 殿
・山本小金吾殿、後河佐江御供、取持長門屋小右衛門・上田三郎左衛門、南側名代両人、
廿五日 晴
分取方久方増山静太郎御両君ヨリ鯉五献・雁壱箱被下、
暮半頃、伊勢新左衛門殿北條瀬兵衛殿事、高津□太郎御手前衆尼弥へ御着、早速高津殿ヨリ為御知被下候ニ付、
金三郎・札助同道即時参上、佐兵衛参ル、南側常蔵殿・千之助殿へ為相知、
七郎兵衛殿被参居、五、六献之上、七郎兵衛殿ヨリ堺屋へ御供之由被申同道参ル、七郎兵衛殿途中ヨリ被帰、
因みに、P.22にある十五日の日記に「奇兵隊の無二蔵が会津勢の中に間者として入り込んだ」との記載があるが、これは無二三とは別人か。
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by 23-4455
| 2018-05-02 13:29
2018年 05月 01日
【三峯神社日鑑】
三峯神社にて発生した死亡事故に関して二通始末書を提出した旨、日鑑に記載あり。
一通目宛先 : 熊谷裁判所長 久保秀景殿
二通目宛先 : 楫取熊谷縣令殿
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by 23-4455
| 2018-05-01 13:16
2018年 04月 01日
【文人墨客と清遊】
(概要)
・久保秀景は明治二十年十二月から明治二十二年七月まで仙台始審裁判所長を勤めた
・二十一年秋に書家の長三州が画家木村香雨と来仙した際に、知事、評定官、検事と久保裁判所長が集まって、
別途来仙していた書家の日下部鳴鶴も招いて大二楼で清遊した
筆墨を弄して秋の夜長もなお足らなかったという
・平和と希望にみちた頃だった
第一次長州征討の際に諸隊の幹部が「三家老切腹」に異議を唱えて浦靱負宅を訪問して論難したが、長三洲と久保無二三はこの際の訪問者に共に名を連ねている。
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by 23-4455
| 2018-04-01 17:45
2018年 04月 01日
【幽嶂閑話】
「六十ニ節 熊谷裁判所開設当時の判事と明治初年の行刑事情」に熊谷裁判所時代の久保無二三の様子が出てくる。
(内容)
・明治九年八月に熊谷県が廃止され、同時に熊谷裁判所が浦和裁判所熊谷支庁となった際に、支庁長として久保秀景が名東県権参事から転任してきた
・ある日久保氏が沢山の書状を出して見て居たが、著者はその際に久保氏から「これはみな木戸孝允の手紙だが一枚あげようか」と言われた
発信者が「糸木竿鈴」という変名で、宛名が「無二三様」となっていた
この手紙はいまだに保存している
・久保氏は明治九年八月から十月まで四ヶ月間熊谷支庁長の職にあった
明治九年十月に裁判所の管轄区域が変更になって熊谷裁判所になり、浦和と前橋が支庁になった
この際に、久保氏は転任していった
明治前半当時の裁判の様子が記載されていて、面白い。
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by 23-4455
| 2018-04-01 17:12
2018年 03月 31日
【岩崎山第4号古墳】
・国宝並ニ史蹟名勝天然紀念物調査報告
・日本考古学・人類学史, 第 1 巻
【報告内容】
・讃岐国寒川郡津田村岩崎山に古墳がある
・六十五年前(文化6年)にその土地の人が発掘し、以下のものが出土した
・棺
・真玉の入った壺
・鏡
・水晶
・鏡は当時の郡奉行筧某が保管した
・石棺の様子図を添付
・以下2点、指示願う
・鏡を筧氏から回収するべきか?
・古墳の調査を続行するべきか?
鏡に関する情報は「古今讃岐名勝図絵(請求記号610-35)」に記載あり。
古墳に関する情報は、2002年に津田町と綾歌町の教育委員会が発行した発掘調査報告書がある。
タイトルは「岩崎山第4号古墳・快天山古墳発掘調査報告書」。
久保無二三が報告書で言及している鏡は、現在所在不明とのこと。
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by 23-4455
| 2018-03-31 20:44